ハッピーってなんなのよ
最近また仕事が忙しくなり、帰りは連日終電ギリギリまたは終電を逃してタクシーで帰宅、という生活が続いています。
雪がしんしんと降り積もる中で、せっせと雪かきをしているような気分です。やってもやっても地面が見えず一向に雪がなくならない。
でも、前職と違ってまわりが良い人たちなんです。社内に愚痴を言える味方もほんのちょっぴりいて、状況を改善しようと採用活動をはじめてくれた上司もいて、私の雪かき作業ができるだけ楽になるようにと気遣ってくれる環境なのでまだいいほうだと思っています。
ただ、やっぱり体力的にきついことに変わりはありません。家に帰ってきて布団に入ってもまだ頭の中でPCが起動している状態で、スリープモードに切り替わらない。ようやくウトウトするのは朝の4時ごろで、数時間後には出勤。
家族からは勤務中に何度もラインで「大丈夫?頑張りすぎないで」のメッセージ。
家に帰れば「過労死レベルの勤務時間だよ。。」と何度も言われる始末。
先日、寝る直前に「やりたいことは全部やってきたし、見たいものは全部見てきたし、幸せな人生だった。このまま仕事で死んでも悔いなし」とふと思ったんです。前職も同じような状況で、仕事で死ぬなんて冗談じゃない、と思ったのですが、今回はそれとは真逆。
一応夫にも伝えておこうと
私:「万が一仕事で死んでも私全然後悔しないと思うから。大丈夫だからね」
夫: 「それ本気で言ってんの?大丈夫ってなに?本気でそう思ってんの?」
私:「うん。本気。死んだとしてもやることは全部やった。いい人生だったって受け入れられるから。心配しないで」
夫:「心配しないわけないじゃん。俺が逆の立場でそう言ったら、どうすんの?俺になんて言うの、そう聞かされたら?」
私: 「そんなに仕事しないでって言う。でも私の場合は。。。」
という感じで落としどころのない会話が永遠に続きそうな気配で、夜も遅く疲れていたわたしは会話の途中で寝てしまいました。
死にたいわけじゃない。
死んだら楽になると思っているわけでもない。
逃げたいわけでもない。
よくよく考えると、自分勝手だなと思います。
もしかしたらそれがわたしの本質なのかな。
人からは、優しくて、相手の立場を思ってくれる人、責任感が強いなどなど言われてきましたが、究極的には自分が良ければそれでよし、というわがままな性格なのかな。
わたしが死んだら母も兄も甥&姪、もちろん夫も深く悲しむだろうし、立ち直れないかもしれない。
それなのに、仕事で死んでも後悔しないなんて、よく言えたもんだ。
前置きが長くなりましたが、ここでタイトルの話しになります。
同じ話しを、ヨーロッパ出身の同僚に話したところ
- 仕事の犠牲になっても良いなんて決して考えるな
- それは心の中はもう死んでると同じこと
- ハッピーになること、ハッピーであること、それが生きているってことだろ
- たとえ今幸せじゃなくても、少なくとも俺はいつか幸せな日が来ると信じて出来る限りの努力をしている(彼の家庭環境はかなり複雑)
- 今、ハッピーだと感じてる?
のようなことを言われました。
彼のキーワードはハッピー。
ハッピーじゃなければ生きている意味はないだろうと。
いやいやいや。
ハッピーじゃなくても人は生きていけるし、生きなきゃいけないわけで。
そんなにハッピーハッピーいうなら聞くけど、じゃぁハッピーってなんなの?
わたしには、申し訳ないけれど陳腐な言葉にしか聞こえませんでした。
ハッピーであることは生きる目的とか色々言ってましたが、なんだかピンときませんでした。
昔の人は、大義名分や、自分や国の名誉を守るために死ぬことなんて普通でしたよね。それは日本に限らず世界のあちこちでも。ハッピーじゃないなら半分死んでると同じことだ、なんてぬるいことを言える環境じゃなかったような気がするんです。そんな大昔のことを引き合いに出しても仕方ないですけど。
楽しむために生きるという彼。
与えられたことを成し遂げるために生きる。その結果として死んだとしても仕方がないという私。
わたしは生まれる時代を間違えたか。
また今度、彼とハッピーについてぜひ話しをしたいです。
ハッピーじゃなくても生きなきゃいけないと思うわけです。命が続く限り。