子どもは産んでいませんが。

結婚後20年、子なし、今後も子なし決定。子どもを産まなかった自分を憎まずに生きるのは難しいと思う今日この頃。

どんな苦しい生活にも、美しい光が灯っている

この日々の暮らし。

この小さな生活。

昨日の一日。

今日の一日。

暮らしながら、

わたしたちはほとんど気がつかないでいる。 

どんなささやかな暮らしにも、

苦しみや悲しみが混じった生活にも、

その片隅で美しい光が灯っていることに。

それが消えずに、

わたしたちの暮らしを照らしていることに。

         (『ヴィトゲンシュタイン 世界が変わる言葉』より)

 

たとえばこんな場合。

ある難病から肺炎を患い、1年以上病院のベッドで寝たきりだった父。数本の管によって命をながらえ、シモの世話をしてもらい、固く目を閉じ見舞いにきた家族を見ることもなく静寂の中で一日を過ごしていた父。ささやかというよりも、かすかにこの世界に引き止められていた父のあの暮らしの片隅に、美しい光が灯っていたのだろうか。1秒でも長くこの世にとどまることが父にとって光だったのだろうか。

たとえその1秒が苦しみでしかないとしても?

どれだけ想像してもこたえがわからない。

 

もう一度ヴィトゲンシュタインの言葉を読み直す。「苦しみや悲しみが混じった生活」とある。

あぁ、これは苦しみや悲しみがすぐそこにあったとしても基本は幸せや喜びも感じることができる人を対象に語りかけているのかもしれない。たぶんわたしの父のような状態は含まれないんだろう。

わたしの小さな頭ではその程度の理解で精一杯。

 

もしそうだとするなら、翻ってわたしの場合。

基本毎日つらいです。

寝る直前まで苦しんでいます。四六時中そのことが頭から離れないせいか、毎朝3時ごろパッと目がさめるので、3時間の睡眠時間以外はその苦しみがずっと頭の中に居座り、あちこちカジカジ蝕んでいます。

 

あまりに苦しくて昨日公園を散歩しました。

風が強い日で、髪の毛をごしゃごしゃにされながら台風の影響だっけなどと考えながら薄暗い気持ちのまま歩いていたのですが、ふと池を見るとそれまで静かだった水面が、一気に吹きつけた風の勢いで水紋が向こう岸までさわさわさわーっと広がったのです。水中からぞわぞわと何か生き物が出てくるように錯覚し、鳥肌が立ちました。少し怖かった瞬間ですが、美しい一瞬でもありました。

 

多分そういうことなのかな。

こんなご褒美もたまにあるわけだから、ね、希望をつないでいきましょうよ、また美しいものを見るために。

ということなんでしょうか。

ちなみに、思わずとった池の写真はこちら。

 

<風が吹く前>

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<風が吹いたあと>f:id:OliveGreen:20180705083633j:plain

 

とっておきの一冊

今日の晩御飯は、週末に作りおきしていた「豚のひき肉炒め」を使って、「季節野菜のドライカレー」を作りました。参考にしたのは、「暮しの手帖社 | 暮しの手帖別冊 毎日がつながる献立」。

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ドライカレーといえば、みじん切りの野菜が入ったスパイシーなひき肉、という、どちらかといえばひき肉が主役のイメージでしたが、有元葉子さんのこのレシピは、なす、きゅうり、紫玉ねぎ、ミニトマトのひき肉あえといった感じで、野菜が主役。なすのとろりとした食感、玉ねぎときゅうりのシャキシャキ感、トマトのみずみずしさと、野菜の食感がとてもおいしい。シャキシャキ玉ねぎの秘密は、細く1㎝幅に切った玉ねぎを塩もみしてしばらく放置した後、さっと炒め合わせるから。塩もみするので、食感がなくなるまで念入りに炒めなくても辛味がありません。野菜の美味しさは食感だと私は思いますが、まさに食感の妙に虜になりました。夏にぴったりの元気になる一皿でした。

 

ガス台の近くに置いてページを少し燃やしてしまったり、水に濡れた台所で開きっぱなしのため水濡れでふにゃふにゃにしたりと手荒に扱ってはいますが、この本は私にとって宝物です。もうこの本なしでは生きていけません。本棚1本に収まりきれないほどの料理本を所有していますが、いつも手にするのはこの本です。本のタイトル通り、日々の献立をつなげるヒントがたくさん盛り込まれています。

 

余談ですが、この本の表紙を見たとき、「あ、もしかして?」と思い、スタイリングした方のお名前を探したところ、やはり高橋みどりさんでした。高橋さんは料理を演出するフードスタイリストとして活躍なさっている方で、多くの料理本のスタイリングを担当されています。高橋さんが選ぶうつわは、主張しすぎず料理を美しく引き立てるので、どの料理も「うふふふふ」と嬉しそうに見えます。一つ一つのうつわはシンプルな印象ですが、組み合わせて使うことでバランス良くお互いを引き立て、とても印象的なたたずまいになります。素材や、色、形の組み合わせ方が絶妙なのです。うつわ好きの観点からも魅力的な一冊です。

 

 

 

 

料理でマインドフルネスを実践

先週金曜日の夜、サラダを作ろうと、にんじんを千切りにしていた時のことです。

「おーこれはもしかして!!」と、天啓のように閃いたのです(大げさですみません)。

 

料理ってマインドフルネスかも。

 

マインドフルネスとは「今この瞬間に意識を向けること」であるとざっくり理解していますが、にんじんを切っている時、正確には、にんじんの千切りが終わったあと、「今ものすごく集中して切ってたよね私」と気づいたのです。

そりゃそうなんです。刃物をもっていますから。指を切らないように、できるだけ細い千切りになるようにと集中してにんじんに向き合っていたわけです(大げさでなく)。

 

その週はそれほど忙しくなく、金曜の夜でも余力が残っていたので、週明けの夜ご飯用に作り置きをしていたのです。にんじんサラダ、マッシュポテト、和風ラタトゥイユ、茹で小松菜、炒めひき肉、茹で鶏、豚肉の塩もみ、塩かぼちゃ、炒めきのこ。余力があったとはいえ、つくり始めたのは22:00過ぎ。できるだけ手早く、効率的に終わらせるためには、余計なことを考えず、五感をフルに働かせながらずっと料理に集中していました。終わったのは23:20。すっきりとやり切った感があり、週末はその充実感でずっとお腹いっぱいな感じでした。

 

あとで調べたところ、こんな記事を見つけました。

イライラしていたり気分が落ち込んでいる時に「料理」をすると、なぜか心が落ち着いたり、気持ちがスッキリすることがありませんか?身近なストレス発散法として「料理」と答える女性は多いと思いますが、実は『マインドフルネス』を実践するのにとても有効な作業だと言われています。

たとえば野菜を切ったり火を使って調理している時には、目の前のことに自然と意識が集中していますよね。さらに、味・香り・盛り付けなどに気を配り、自分が作っている料理と向き合うことで「今」という瞬間に意識が集まります。“瞑想”という言葉の定義に「何かに心を集中させること」というものがありますが、料理中は無意識のうちに心を集中させている状態です。最近ストレスが溜まってきたな…と感じたら、ぜひ身近で実践できる「料理」で脳をリフレッシュさせてみませんか?

料理や、掃除、スポーツに集中!暮らしの中で気軽にできる「マインドフルネス」実践法 | キナリノ

 

マインドフルネスの説明はこちらに詳しく掲載されています。以下、一部抜粋しました。

ジョン・カバットジン博士は、マインドフルネスをこう定義付けています。

「意図的に、今この瞬間に、判断せずに、注意を払うこと」

ちょっとわかりにくいかもしれませんね。

「意図的に」とは、普段無意識に感じていることを意識的に感じること。例えば、呼吸している時、「私は呼吸している」というように呼吸に伴う体の感覚に意図的に注意を向けるのです。
「今この瞬間に」とは、過去を悔やんだり未来を不安に思ったりするのではなく、今の感覚や感情、思考、そして置かれている環境に目を向けることです。

「判断せずに」とは、出来事、状況、他人や自分の考えや行動に対して、良いとか悪いとか判断を加えずに、ありのままの事実だけをみることです。

マインドフルネスの正しい意味を知っていますか?【大人のマインドフルネス入門#1】 | 大人のワタシを楽しむメディア

 

 

 

 

 

 

 

歯列矯正 (1ヶ月経過)

先日、歯の表側(下の歯のみ)にブラケットを装着してきました。1ヶ月前に装着した歯の裏側の装置は誰にも気づかれませんでしたが、表側のブラケットは見てすぐにわかるので人と話していると口元に視線を感じます。ブラケットが目立つ分、「なに..その舌足らずな喋り方は...ああ、矯正しているのね」と理解はしてもらえるかな。などと、呑気に構えていた私はアホだったと夜ご飯の時に思い知るのでした。

 

まず、痛い!

口を動かすたびにブラケットが唇の内側にあたるので、切れて血が出て固まってまた切れて...の繰り返し。そして潰瘍のようになった患部にブラケットがゴツゴツ引っかかるのでイタタタ...。指先を紙でスパッと切って痛っつと思ったら、また同じ箇所を紙でスパッと切って痛ーいという感じ。食べられないし口を動かすのも怖い。慌てて歯医者からもらってきたワックスを小さく丸めてブラケットにペタッとはりつけ、そーっと口をもぐもぐしたところ、痛くなーい!

ん?

切れてなーいだったっけ(古い)。

 

ブラケットの痛みはなんとかなりそうなものの、次の悩みは、つまる!

冷やし中華を食べているとき、噛み砕いた麺やハムやモヤシや錦糸卵や紅ショウガが、つまり何もかもがブラケットにみっちりつまるので、その状態でにやっと歯を見せて笑うと恐ろしいことになります。「見てはいけないものを見てしまった」という顔をされます。

どうしよう!人と一緒にご飯食べられない!!

普段から家族以外とご飯に行くことなどほとんどないのに、もしかしたら行くかもしれない日を思い、軽くパニックになりました。でも、1)前歯で噛まない、2)奥歯で噛んだものをなるべく前歯へ移動させない(食べかすがつまらないように)という技でなんとか回避できることを学びました。

とはいえ、ブロッコリーは外で食べないほうがいいような気がします。前歯に緑色の食べかすがくっついていたら気持ち悪いですよね。ブロッコリー好きですが家で食べることにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

日差しとのたたかい

今年こそ飲む日焼け止めを試してみようと思い、ヘリオホワイトを買ってみました。海外製のヘリオケアからライセンス供与を受けて日本の製薬会社が販売するんだろうなくらいの軽い認識でしたが、間違っていました。含有成分も微妙に異なるし、有効成分の含有量にいたってははかなり違うようです。ぼんやり生きていると、こんな風に足元をすくわれるんですね。

ちょっと例えが違うかな。

 

効果があるかどうかについてはいろいろ調べてみましたがわかりませんでした。紫外線を防ぐものではなく、紫外線による細胞の損傷を防ぐものらしいので、日焼け止めはやはり必須。ビタミンCの点滴も今月中に試してみようと思います。

 

そもそも経口摂取しようと思ったのは、目もかなり紫外線のダメージを受けていると実感したから。天気の良い日に日傘をささずに外を歩くと、目がかなり疲れて体もぐったりします。痩せたらすっかり症状が出なくなりましたが、太陽を浴びると湿疹ができる光線過敏症を患っていたので、もともと紫外線に弱い体質(そんなものがあればですが)なのかも。日傘をさしにくい状況のときもあるし、自転車でポタリングすることも多いので、日傘やサングラスに加えさらに予防できないかと思ったのでした。

 

今日も太陽がギラギラしていたので、顔も体も日焼け止めでテカテカさせながら出かけましたが、子供の頃は麦わら帽子ひとつで真夏の太陽をしのいでいたんだよなぁと思い出しました。なんと身軽だったことか。

あー羨ましい。懐かしい。

永遠に続くシミ、シワ、たるみとの戦いに疲れたら、降参するのもありだと思います。ありのままを受け入れるというか。年齢には勝てないので受け入れざるを得ないですし。シミなんかより人生にはもっと大切なことがある!と潔く生きるのもいい。

どちらもアリだと思います。

 

子をもつ人生を選択できなかった

毎晩母と電話で話す。

時間にして平均2〜3分。
短い時は、元気?大丈夫だよ、じゃまた明日と、ほんの30秒くらい。
 
先日も母との電話を終えた後、あぁそうだった、とふと思い出した。
ここのところずっともやもやしていた自分を、これで納得させられるかどうかわからないが、子供をもつことは無理、とあきらめた理由は思い出した。
 
結論からいってしまうと、これ以上自分にはどうにもできない状況をかかえるのは無理と思ってしまったからだった。
 
はじまりは父だった。
ある難病と診断された、と実家の母から連絡があった。今すぐ命に関わる病気じゃないから…と電話ごしの母は落ち着いていたが、これから父はどうなるんだろうと私はいつも不安だった。
 
その後父は前立腺がん、その数ヶ月後に姉が子宮がんを発症、二人ともほぼ同時期に手術を受けた。回復を待って、私は夫と入籍した。
 
3年後、姉のがんが再発して36歳で他界、残された子供は当時8歳と6歳だった。父と母は退職してこれからのんびり過ごそうという時に、孫を2人を育てることになった。
 
小学生はとにかく学校に持っていくものが多い。
空のマヨネーズの容器、瓶、雑巾、習字の道具、絵の具、上履き…。
 
そして塾やクラブ活動などで毎日が忙しい。
子どもそれぞれが何か習い事をはじめると送り迎えもそれぞれ必要になるので子供ならず親も忙しくなる。
 
病気が徐々に進行し始めた父は体の自由がきかなくなり、介護が必要になった。孫を育てることと夫の介護で母にとっては大変な時期だった。心労が重なったからか、母は狭心症と診断された。
 
姉が亡くなってからしばらくの間、私は夫とほぼ毎週末実家に帰った。小学生で母を亡くした甥と姪のそばにいてあげたいということと、父と母の負担を少しでも減らしたいという気持ちからだった。新幹線で帰る余裕はないためいつも車で、約3.5時間の道のり。仕事を終えた金曜日の夜、あたふたと家に戻り荷物を準備して車に乗り込む。残業で帰宅が遅くなった時は、家に着いたのが午前2時過ぎということもあった。
 
先のことを考えると心配は尽きなかったが、寂しさの中で家族それぞれが生活のリズムを取り戻しつつあった。実家に帰る頻度は1ヶ月2回に減らした。その頃、母と姪が交通事故にあった。
 
午後5時過ぎ、翌朝学校に持っていくノートがないという孫を車に乗せて買いに行った文房具屋から帰る途中だった。国道を右折する母の車に対向車がぶつかり、母は重症、姪は意識不明の重体だった。
 
東京の私の職場に、甥から事故を伝える電話があり、心臓が止まりそうだった。運ばれた病院に電話したものの個人情報のため電話で容態は伝えられないと繰り返すばかり。事故にあったのは私の母と姪であること、本来なら病院へ行って確認すべきだが東京にいるので少なくとも数時間かかる、教えてくださいどうかお願いしますと、アホみたいに繰り返し繰り返し丁寧に必死で説明するもののまったくわかってもらえず。怒りと不安でこめかみの血管がぶちっとちぎれそうになりつつ、「じゃぁ、命に関わる状態なのかだけでもいいですから。危険な状態なんですか、それだけでも教えてもらえませんか?」と食らいつき、「いまのところ命に関わることではないと思われます」のようなことを聞き出せた。脱力してしまって何を言われたか正確には覚えていない。
 
幸い姪は2週間後に意識を取り戻し、事故の状況を考えると肋骨と足の骨折ですんだ母は不幸中の幸いだった。甥は母を亡くし、母親代わりの祖母と妹が入院してしまい心細かったと思う。私は仕事を休んでしばらく実家に戻った。洗濯や家事をしながら入院している母と姪を病院に見舞う日々が続く。東京に戻ってからも毎週末夫と2人で実家に帰った。
 
母と姪もすっかり回復ししばらく経ったある夏、甥と姪の夏休みを利用して私は東京旅行を計画した。東京ディズニーランドと恐竜博をめぐる2泊3日の旅。夏休みの甥と姪に家族旅行をさせてあげたかったし、病状がさらに進み食べ物をうまく飲み込むことができなくなっていた父に、父が大好きな東京へもう一度来てもらいたかった。母からはこれが最後の機会かもしれないと言われていた。1日目は奮発してディズニーランドのオフィシャルホテル泊、2日目はうちに泊まる予定だった。
 
姪と甥は大はしゃぎだった。
何をみてもどこへ行っても、それはそれはいい笑顔だった。特にパレードを見ながら飛んだり跳ねたりちぎれそうな笑顔。それを見た大人もにこにこ。みんなが笑顔だった。私は心から満足だった。

来てよかったと思った瞬間、何かが私の頭にぴたっと張り付いた。見上げると、目の前が淡いピンクに染まるほど無数の紙吹雪がひらひらひらひらと辺り一面に舞い落りていた。パレードが去る時にパーっと巻かれたものだったのだろう。子どもたちはキャッキャ言い合いながら、思いっきり空に手を伸ばして紙吹雪を取ろうとしていた。

父も母も兄も夫も言葉を失いひらひら舞い落ちる紙吹雪を眺めていた。それぞれが、いまこの瞬間、ここに至るまでのいろいろを噛み締めていた時間だったように思う。
切れそうなほどピュアで尊いひとときだった。
 
そして、ふと思ってしまった。
「明日ディズニーシーに行ったらもっとみんなが楽しいかもしれない」と。
それがその後の取り返しがつかない出来事の始まりだった。
 
その年、東京の夏は異常に暑かった。アスファルトの照り返しもありディズニーランドは特に暑かった。ベビーカーや車椅子は地面からの距離が短いので、子どもやお年寄りは注意が必要なんです、と後に父が救急車で運ばれた病院で言われた。
 
2日目は恐竜博を取りやめディズニーシーに変更した。1日楽しんで夕方東京駅へ向かう京葉線の車内で、車椅子に乗ったまま父は意識を失った。東京駅に着くまでが異様に長く感じた。東京駅の京葉線のホームから八重洲口に出るまでがまた気が遠くなるほど長かった。意識を失った父の足は車椅子からだらりと落ちているため、夫は父の足を地面から浮かせるように持ち上げ、兄が車椅子を押し、母と甥と姪はその後を追いかけ、私は駅員と一緒に車椅子部隊を先導した。ジメジメと気持ちの悪い暑さの中、みんな汗だくで必死で出口に向かって走った。
 
結局父は待機していた救急車で病院へ搬送され
そのまま入院。兄は子供たちをつれて新幹線で帰り、母はそのまま東京に残った。熱中症と誤飲による肺炎と診断された。翌日から私は会社を休み、母と毎日病院へ通った。1週間後に母が帰る時も父の容態は良くならなかった。「あの時ディズニーシーに行こうって私が言わなければ…」その時から私の中でどす黒い気持ちがムクムクし始めた。
 
幸い当時の職場は病院からタクシーでワンメーターの距離だったため、昼間は父を見舞い、夜は病院に頼んで何度か泊らせてもらった。父のベッドの横に簡易ベッドを置き、父のそばにいた。当初の予定通りディズニーランド&恐竜博だったらこんなことにならなかったのに、父にも家族にも大変なことをしてしまったという気持ちだった。夜、父が隣で眠る病室でじっとしていると後悔や恐怖が次から次へと折り重なる。重く暗い気持ちを抱えたまま会社に向かう朝は辛かった。
 
1ヶ月経っても父の容態は良くならなかった。

母や兄、甥や姪から遠く離れたこの病室で万が一のことがあったらと思うとたまらなく怖かった。改めて大変なことをしまったという思いがこみ上げる。なんとか家に帰らせてほしいと主治医に頼み、状態が安定して帰れそうなら伝えます、と言われた。しばらくした後、明日なら大丈夫だと思うと告げられ、民間の救急車で搬送する手配をした。急変する可能性もあり危険な状況だったが、なんとか無事に帰ることができた。父はその後地元の病院に入院したまま、約一年後の早朝、ひっそりと亡くなった。
 
母を亡くし、大きな事故を経験し、優しいじいちゃんを亡くし、寂しさを抱えながらも甥と姪はその後それぞれ小学校を卒業した。
 
中学生になると二人は反抗期を迎え、小さな頃から、母以上に母にならなければと必死で母代わりをつとめてきたばあちゃんを、ばばあ、クソばばあ、うるせー、死ね、と呼ぶようになった。心配して毎週末東京から帰ると、私たちの顔を見るなり舌打ちして二階の自室へ引きこもり、私たちが帰るまで部屋から出てこない。中途半端に介入すると、私たちが帰った後あと母に余計辛く当たるのではないかと心配だったため、結局、無視された状態を無視することにして、できるだけ平常心で過ごすことにした。それしかできなかった。反抗期の2人にどう対応したらいいのか、夫と私は意見がまったく合わなかった。日曜日の夜東京へ帰る車内でほぼ毎回怒鳴り合いの喧嘩をしながら高速道路をぶっ飛ばし、精根尽き果てて深夜に到着し、次の日から出社という生活だった。
 
スクールカウンセラーを調べたり、本を読んだり、ネットで調べたりと、反抗期の対応に関する情報を求めるけれど、薬のように効能や効果が期待されるものではないので、やってみなけりゃわからない。血は繋がっているとはいえ、私の子どもではないあの2人にどこまで私が介入していいものか。介入した結果、さらにひどくなってしまったら、それを受け止めるのは離れて住んでいる私ではなく母や兄。結局二の足を踏んだ状態が続いた。
 
四六時中心配で頭が重かった。

食べて行くためには東京で仕事をしなければならない。でも実家に帰るべきではないのか、でも仕事があって帰れない、でも帰らなければ母が救われない。その時は、手足をそれぞれロープで縛られ、手足がひきちぎれるほど四方八方からロープが引っ張られているような感覚だった。いくら考えても何をどうすればいいのか答えはでなかった。
 
反抗期はいつ終わるのか、本当に終わるのか、家族みんなが先の見えない不安な日々を過ごした。そんなこともあったね…みんなで静かに話せる日が来るとはとても思えなかった。
でも気づいたらそんな日が戻ってきていた。あっけないほどに。あまりにもあっけなくてあれは夢だったのかと思うほどに。
とにかく、ようやくみんなが穏やかに過ごせる、そんな希望を感じてしばらくした頃、東日本大震災で被災。地盤が割れ、家が傾き壁面には無数の亀裂。歪んだドアは鍵をかけられない状態に。家は大規模半壊と診断され、引っ越した。

そして今に至る。

 

ここには書けないこと、書ききれないあんなことやこんなこと、そして今も胃が痛くなるような日々も多いけれど、穏やで幸せだと思える毎日を送っている。
 
この先家族にまた何かが起きるかどうかわからないが、今なら子どもを産めるかも、いやいやもうとっくに無理、そんな思いをここ最近繰り返していた。

そして思う。
 結局私がいてもいなくても家族はそれぞれの人生を送ってきたはずで、私は勝手に先導役を引き受けて右往左往しただけだった。私が何をしたところで姉や父の死を防ぐことができず、母を心臓の病から守ることもできなかった。
そこから考えを先に進めると、あぁ産めたのかもしれないという思いにたどり着く。産んだって産まなくたって家族の状況は変わらなかったわけだし。
 
でもそうじゃなかった。
それは安っぽい結果論にすぎず、その時々の私はいっぱいいっぱいだった。東京でフルタイムで働きながら、金曜日の夜実家に戻り、日曜日の深夜東京に戻る生活、家族のその時々のもろもろをごっそり持ち帰り消化不良のまま月曜日の朝から仕事に戻る生活。そんな生活を結婚直後から15年以上繰り返してきた。これ以上何も受け付けられない、そんな状態だった。そんな中で、命を授かり育てる、それは自分には非現実的な世界だった。子どもが自分のように病弱だったら…学校でいじめにあったら…子どもが病気の時に実家でまた何かがあったら。起きるかもしれないし起きないかもしれない未来にいつも怯えていた。自分の力ではどうにもできないことに自分が引き裂かれるのはもう無理。そう思っていたのだった。そして子どもを産むという選択肢はなくなっていた。
そういうことだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

他人の価値観に縛られない(努力目標)

昔読んだスティーブ・ジョブズ名言集の中で、気になっていた言葉がありました。

Your time is limited, so don’t waste it living someone else’s life.

あなたの時間は限られている。だから他人の人生を生きたりして無駄に過ごしてはいけない。

『他人の人生を生きる』って?

人の真似をして生きるなってこと??

会社員じゃなく、起業家として生きろってことか???

ちょっとピンとこなかったのですが、先日おおーっ、こういうことか!!と理解できた瞬間がありました。

 

とあるサイトにて、『40代の白ワンピースはイタイのか』という話題が取り上げられていて、今年白いブラウスを2枚買った私としては、ブラウスならオッケーかな?とドキッとしながら読んでいました。

 

もしかしたら、その白いワンピースは特別な日のためにオーダーメイドで仕立てた一張羅だったかもしれない。その費用を捻出するためにコツコツ貯めてようやく手に入れたのかもしれない。または、亡くなったお母様が若い時に着ていた思い出の一着だったのかも。そんな背景も知らず(私も知らないけど)、会ったことすらない見ず知らずの人に、40代+白ワンピ=イタイと回答されてしまう世の中、なんとも世知辛い

 

白いワンピースに限らず40代ならこれ、とか、50代でこれはない、など、誰が決めたかわからない基準を気にしつつモノを選ぶのはしんどいなぁとどんよりしていた時に、冒頭に書いた瞬間がきました。これが『他人の人生を生きる』ということなのかと。『他人の人生』を『他人の価値観』と解釈して言い換えると、『人生において、他人の価値観に振り回されることほど無駄なことはない』(意訳)となるでしょうか。

 

知るかっ!

好きで着てるんだからほっとけ!

で、基本いけたら最高だと思います。

人のことを気にするよりも自分の人生を生きましょうよ、お互い短い人生じゃないですかと。人の価値観をちらっと気にして、無難な、着たくもないものを選択する人生ってなんだかさみしい。あぁ白いワンピース、着たかったなぁーなんて後悔しながら死ぬのはもったいないと思うのです。