16年分のなにか(つづき)
(前回のつづき)
とはいえ、自分を突き落とすのも、そこから引き上げて救い出すのも自分。結局のところ、自分は自分から逃げ出せない。あぁめんどくさい。
過去16年間の自分(の行い)には大いに不満。でも、結果はともかく、今日に至るまでとりあえず生き抜いた。仕事でもプライベートでも、次から次へとあっちもこっちも問題がてんこ盛りだったけれど、ひとつひとつ律儀に向き合ってきた。それしかできなかった。
さてこれからの16年。
何気なく読んだこの記事人生がうまくいっていない時に、真っ先にするべきこととは?ある経営者が教えてくれた成功の秘訣が衝撃的だった!がちくっと刺さった。
ちょっと失礼なことを言うが、人生がうまくいかないなら、それは価値観が間違っているということなんだよ。『天国おじい』より抜粋
私の価値観が間違っているのか、または間違っていたのかは分からない。どこに価値を見出すかによって目の前の状況が変わって見えると思うから。職を変えるのは悪いという価値観は一見正しく思えるが、それに縛られて心を病んだり、苦しさから逃れるために虹の向こう側へ行ってしまったらこの価値観が正しいとは思えない。
ただ、精一杯やってきたと自分を納得させることはできても現状に満足していないなら、今まであえて選択しなかったほう、避けてきた方向に進んでみたいと思った。毎日の生活の中で選ぶ無数の選択が自分の方向性を作り、それが習慣として定着し、価値観を形作るとするなら、今まで選択しなかったほうをひょいと選んでみたら、その先には今までとは違うものが見えるかもしれない。せっかく選択肢があるなら、今までの自分なら選ばないものをさくっと選んでみたい。その流れで16年後の自分を見てみたいと思う。
16年分のなにか
2002年に忌野清志郎さんが松尾芭蕉ゆかりの土地約1,000㎞を自転車で旅したドキュメンタリー番組が、今朝NHKにて再放送されていた。清志郎さん51歳の挑戦だった。放送当時30代なりたてほやほやだった私。もしこの番組をリアルタイムで観ていたら、「自転車で1,000㎞走る!?」とまずは驚愕し、さらに「51歳になってもすごいなぁ」と敬服したと思う。
当時私は転職ばかり繰り返しており、数ヶ月先はいつも霧につつまれたようにおぼろげで、1年後、5年後、10年後、さらにその先のことなどあり得ない世界だった。どんな仕事をしているのか、子どもはいるのかいないのか、どんなおばさんになっているのか、もしかしたらおばあさんのようになっているのか。
16年後の今、あり得ないと思っていた世界に突入しようとしている。
恐ろしい。
50代を迎えることではなく、いつのまにか16年が過ぎ去っていたということが。もちろん履歴書を見ればいつどこで何をしたのかわかるけれど、結果として何か残ったんだろうか。16年分の何かが自分の中に蓄積されたのだろうか。
これは例えるなら、何気なくATMからお金を引き出そうとしたら残高が100円しかなかったという感じに近い気がする。あれいつのまにこんなに使っちゃったの、と。残高不足の表示を見てはじめて恐ろしくなるといった感じ。ちょこちょこ引き落とした自覚もあるし、記帳すればいつどれだけ引き落としたのか分かる。でも一体何に使ったんだっけ。16年分の時間を私は何に使ってしまったのか。
虚しいタラレバだけれど、もし子どもを産んで育てていれば16歳になっていたはず。でも子はいない。仕事は続けてきたとはいえあちこち転職したせいで貴重な人脈はぶつ切れ状態。
何やってんの、自分。
何やってきたの、自分。
風を切って軽やかに前に前に進む清志郎さんを画面のこちら側で観ながら、私の心は重くずっしりと沈んでいた。
正直なところ、16年前から今に至るまで、なに一つ蓄積されていないよね、と自分に死刑宣告してしまいたい。お前はスカスカの薄っぺらな人間だと自分を突き落とし、海の底深く沈めてしまいたい。
(たぶんつづく)
歯列矯正
20代の頃からずっとずっとずーっとやりたいと思っていた歯列矯正。何度かやろうとしたものの、その時々のいろいろな事情で断念してきました。
今回は絶対やる。そう心に決めて病院を探し、いくつかカウンセリングを受け、矯正歯科を決めました。そして先日から矯正装置をつけはじめました。
やったー!!!
…と書けるのも、ようやく痛みが治まってきたから。はじめて歯の上下の裏側につけた時は
1)話しにくい!
歯の内側に挟まっているので強烈な違和感があり、入れた直後はふがふがしてうまく喋れませんでした。音読したり話す練習してくださいね、と先生から言われましたが、確かに練習が必要です。とくに、さ行とた行など一部の破裂音がとても発音しにくいです。英語は舌を使う発音がしにくく、自分の舌足らずな話し方にイラっとします。
2)痛い!
おにぎりを食べようとしたら、噛めない!
奥歯を噛み合わせると、ずきーーーんという痛みが左右の奥歯に響いて、とにかく痛い痛い痛い痛い。奥歯をかちっと合わせるのが精一杯で、噛めないのです。噛み締めず、静かにカチカチ歯を合わせて砕いて食べようとしましたが、ぐっと噛み締めないと食べたような気がしないもんなんですね。中途半端に噛んでもなんだか美味しくないし、2日間は結局プリンやヨーグルトなど、噛まずに済むものを食べていました。
あまりにも痛いので翌日に先生に聞いたところ、上下いっしょに装置をつけたのでここ2、3日が痛みのピークだけど、だんだん治まってくるというおはなしでした。ぎゅーっと噛み締めて痛みを実感しながら、本当にこの痛みが治まるのかなぁと疑心暗鬼でしたが、本当に治まってきました。疑ってごめんなさい。
連休明けはいよいよ歯の表面にワイヤーをかけます。不便だし痛いけれど、1日過ぎれば過ぎるほど矯正の終わりに近づいているんだと希望を持つことにします。もうおばさんだし、今さら矯正しても…と思う気持ちもありましたが、おばさんだってなんだっていいんです。2年でコンプレックス(のうちのひとつ)が解消できるならやってみる価値ありです。それに、2年なんてたぶんあっという間です。社会人になってからの20年は、一瞬瞬きをしたほどのスピードで過ぎ去りました。
感覚としてはそんな感じでした。
くたびれた感じ
お気に入りの洋服。
手洗い可マークが付いているけど、毎回クリーニングに出して、丁寧に大事に扱ってきたとっておきの一枚。でも、どんなに大切に扱っても経年変化は避けられず、色がうっすらくすんだり、黄ばんだり、型崩れしたり、生地のハリがなくなってきたり。新品の美しさは年月とともに失われ、ちょっとくたびれた感じになることが多いです。
私自身もそんな感じになりつつあります。
まず、顔。
どこから見てもお気に入りとは到底思えない自分の顔。それでも、これしか持っていないので、それなりに手間暇かけて取り扱ってきましたが、50歳も近くなると顔のあちこちに経年変化がみられるようになりました。お手入れしてるのに全体的にうっすらくすんでくたびれた感じだよね、という印象。
あーあ。
書くのは顔だけにしておきます。
書きながら自分に悲しい苛立ちを感じたので。
多くは望みません。涼しげで透き通ったおばさんになれたら本望です。透明人間と言う意味ではありません。
歩く
先日青山で用事を済ませ、地下鉄の駅に向かって歩いていたところ、『日本橋まで○○km』という標識が目に入りました。へー、このまま歩き続けたら日本橋に到着するんだ。歩いてみようかな。と思いたち、歩きはじめました。日本橋ではなく東京駅まで。その方が中央線に乗るのに便利だからです。
天気が悪かったら歩こうなんて思わなかったと思います。頭の中がモヤっとした状態でなければさっさと電車で帰ったと思います。じっとしていられない、どこにも置き場所のない気持ちをどうにかしたい、ヘトヘトに疲れるまで歩いて頭を空っぽにしたい、そんな心の状態でした。
要は暇だったんです。
約7km、1.5時間の距離でした。
遠足気分であちこち見ながら、音楽を聴きつつ、もんもんと考えごとをしながら歩いていたからか、意外にすんなりと到着しました。期待していたほどへとへとに疲れることもなく、もうちょっと歩きたいなと思ったくらいです。歩く前と後で何か状況が変わったわけではありません。1.5時間歩いても抱えている問題は相変わらずずっしりとそこにあります。でも、家にこもって一日中それについて考えるよりも、外に出て風を感じたり道ばたの花を眺めたりと、一瞬でも意識が外に向かう回数が増えれば増えるほど、そしてその時間が長ければ長いほど、心の消耗から自分を守れるような気がしました。
それまでは、悩みについて考えないようにしようとか、気を紛らわせよう、他のことを考えよう、本を読もうなど、じっとしたまま頭の中ですべて解決しようとしましたが、いつのまにか意識が100%そこに戻ってしまうのでうまくいきません。そこから無理やり引き剥がし、本に集中しようなどと思っても、流れるプールの流れに逆らって泳ぐようなもので、大変疲れます。
でも歩いていると、意識は、体の動きや目や耳などの五感が感知するものと、抱えている問題に向かうものとに自然と分散されるので、頭の中では考え続けていたとしても、悩みが占領する割合はその分減ります。減った分だけ消耗しないように思います。
頭の中で何かがぐるぐるしはじめたらとりあえず歩く。何も期待せず、その気持ちを抱えたまま歩くようにします。歩くのは正直なところ嫌いだったのですが、変われば変わるもんですね。
てくてく てくてく
コンビニで用事を済ませたあと、家とは逆方向へ向かって歩き始めた。
家には帰りたくなかった。
むしゃくしゃして心がどうにも落ち着かないから。
てくてくてくてく歩いて
すーはーすーはー深呼吸して
たったったったっと、テンポよく歩いた。
公園が近づいてくると 甲虫のような 少し湿った土の匂いがしてきた。空を見上げると雲の隙間からお月さまがみえる。
ひんやりした夜風が心にしみる
吉祥寺は平日でもまっすぐ歩けないほど人が集まる町だが、夜は早い。井の頭公園は花見客がほぼ撤収したあとのようで、しずかに桜の下で酒を飲んで語り合っているお行儀の良い社会人グループがちらほら。そこここのベンチにすわるカップル。遠くから微かに歓声が聞こえるまだ勢いの残っている学生らしきグループ。
雑多で自由で落ち着く。
都会の夜の公園はいい。
虫だと思ってびくっとしたら、桜の花びらがスマホのこの画面にはらりと落ちてきた。
じつは恋をしていた。
それが終わった夜でもあった。
静かで優しくてあたたかで、春の陽射しのような時間だった。
夢のようだった。
でもいい加減 終わりにしよう。
来週早々から新天地で働くことにしよう。
がんばれ、自分。
人生悪いことばかりじゃない。
そう信じたい。
夜風に少しだけ救われた。
やってやった
先日、希望というか憧れの会社から最終面接に呼ばれ、面接を終えてきました。やってやる、不安なんてないと前回のブログで書いた通り、やるだけやってきました。あれ以上はもう無理と思えるほど力を出しつくしました。やってやった感でいっぱいです。
とはいえ、頑張ったからと言って結果が出るような甘い世の中ではありません。力を出し尽くしたところで、どうにも太刀打ちできないことも沢山あります。
結果が出るのは明日。
果たしてどうなるか。
待つのは長いですね。