子どもは産んでいませんが。

結婚後20年、子なし、今後も子なし決定。子どもを産まなかった自分を憎まずに生きるのは難しいと思う今日この頃。

子をもつ人生を選択できなかった

毎晩母と電話で話す。

時間にして平均2〜3分。
短い時は、元気?大丈夫だよ、じゃまた明日と、ほんの30秒くらい。
 
先日も母との電話を終えた後、あぁそうだった、とふと思い出した。
ここのところずっともやもやしていた自分を、これで納得させられるかどうかわからないが、子供をもつことは無理、とあきらめた理由は思い出した。
 
結論からいってしまうと、これ以上自分にはどうにもできない状況をかかえるのは無理と思ってしまったからだった。
 
はじまりは父だった。
ある難病と診断された、と実家の母から連絡があった。今すぐ命に関わる病気じゃないから…と電話ごしの母は落ち着いていたが、これから父はどうなるんだろうと私はいつも不安だった。
 
その後父は前立腺がん、その数ヶ月後に姉が子宮がんを発症、二人ともほぼ同時期に手術を受けた。回復を待って、私は夫と入籍した。
 
3年後、姉のがんが再発して36歳で他界、残された子供は当時8歳と6歳だった。父と母は退職してこれからのんびり過ごそうという時に、孫を2人を育てることになった。
 
小学生はとにかく学校に持っていくものが多い。
空のマヨネーズの容器、瓶、雑巾、習字の道具、絵の具、上履き…。
 
そして塾やクラブ活動などで毎日が忙しい。
子どもそれぞれが何か習い事をはじめると送り迎えもそれぞれ必要になるので子供ならず親も忙しくなる。
 
病気が徐々に進行し始めた父は体の自由がきかなくなり、介護が必要になった。孫を育てることと夫の介護で母にとっては大変な時期だった。心労が重なったからか、母は狭心症と診断された。
 
姉が亡くなってからしばらくの間、私は夫とほぼ毎週末実家に帰った。小学生で母を亡くした甥と姪のそばにいてあげたいということと、父と母の負担を少しでも減らしたいという気持ちからだった。新幹線で帰る余裕はないためいつも車で、約3.5時間の道のり。仕事を終えた金曜日の夜、あたふたと家に戻り荷物を準備して車に乗り込む。残業で帰宅が遅くなった時は、家に着いたのが午前2時過ぎということもあった。
 
先のことを考えると心配は尽きなかったが、寂しさの中で家族それぞれが生活のリズムを取り戻しつつあった。実家に帰る頻度は1ヶ月2回に減らした。その頃、母と姪が交通事故にあった。
 
午後5時過ぎ、翌朝学校に持っていくノートがないという孫を車に乗せて買いに行った文房具屋から帰る途中だった。国道を右折する母の車に対向車がぶつかり、母は重症、姪は意識不明の重体だった。
 
東京の私の職場に、甥から事故を伝える電話があり、心臓が止まりそうだった。運ばれた病院に電話したものの個人情報のため電話で容態は伝えられないと繰り返すばかり。事故にあったのは私の母と姪であること、本来なら病院へ行って確認すべきだが東京にいるので少なくとも数時間かかる、教えてくださいどうかお願いしますと、アホみたいに繰り返し繰り返し丁寧に必死で説明するもののまったくわかってもらえず。怒りと不安でこめかみの血管がぶちっとちぎれそうになりつつ、「じゃぁ、命に関わる状態なのかだけでもいいですから。危険な状態なんですか、それだけでも教えてもらえませんか?」と食らいつき、「いまのところ命に関わることではないと思われます」のようなことを聞き出せた。脱力してしまって何を言われたか正確には覚えていない。
 
幸い姪は2週間後に意識を取り戻し、事故の状況を考えると肋骨と足の骨折ですんだ母は不幸中の幸いだった。甥は母を亡くし、母親代わりの祖母と妹が入院してしまい心細かったと思う。私は仕事を休んでしばらく実家に戻った。洗濯や家事をしながら入院している母と姪を病院に見舞う日々が続く。東京に戻ってからも毎週末夫と2人で実家に帰った。
 
母と姪もすっかり回復ししばらく経ったある夏、甥と姪の夏休みを利用して私は東京旅行を計画した。東京ディズニーランドと恐竜博をめぐる2泊3日の旅。夏休みの甥と姪に家族旅行をさせてあげたかったし、病状がさらに進み食べ物をうまく飲み込むことができなくなっていた父に、父が大好きな東京へもう一度来てもらいたかった。母からはこれが最後の機会かもしれないと言われていた。1日目は奮発してディズニーランドのオフィシャルホテル泊、2日目はうちに泊まる予定だった。
 
姪と甥は大はしゃぎだった。
何をみてもどこへ行っても、それはそれはいい笑顔だった。特にパレードを見ながら飛んだり跳ねたりちぎれそうな笑顔。それを見た大人もにこにこ。みんなが笑顔だった。私は心から満足だった。

来てよかったと思った瞬間、何かが私の頭にぴたっと張り付いた。見上げると、目の前が淡いピンクに染まるほど無数の紙吹雪がひらひらひらひらと辺り一面に舞い落りていた。パレードが去る時にパーっと巻かれたものだったのだろう。子どもたちはキャッキャ言い合いながら、思いっきり空に手を伸ばして紙吹雪を取ろうとしていた。

父も母も兄も夫も言葉を失いひらひら舞い落ちる紙吹雪を眺めていた。それぞれが、いまこの瞬間、ここに至るまでのいろいろを噛み締めていた時間だったように思う。
切れそうなほどピュアで尊いひとときだった。
 
そして、ふと思ってしまった。
「明日ディズニーシーに行ったらもっとみんなが楽しいかもしれない」と。
それがその後の取り返しがつかない出来事の始まりだった。
 
その年、東京の夏は異常に暑かった。アスファルトの照り返しもありディズニーランドは特に暑かった。ベビーカーや車椅子は地面からの距離が短いので、子どもやお年寄りは注意が必要なんです、と後に父が救急車で運ばれた病院で言われた。
 
2日目は恐竜博を取りやめディズニーシーに変更した。1日楽しんで夕方東京駅へ向かう京葉線の車内で、車椅子に乗ったまま父は意識を失った。東京駅に着くまでが異様に長く感じた。東京駅の京葉線のホームから八重洲口に出るまでがまた気が遠くなるほど長かった。意識を失った父の足は車椅子からだらりと落ちているため、夫は父の足を地面から浮かせるように持ち上げ、兄が車椅子を押し、母と甥と姪はその後を追いかけ、私は駅員と一緒に車椅子部隊を先導した。ジメジメと気持ちの悪い暑さの中、みんな汗だくで必死で出口に向かって走った。
 
結局父は待機していた救急車で病院へ搬送され
そのまま入院。兄は子供たちをつれて新幹線で帰り、母はそのまま東京に残った。熱中症と誤飲による肺炎と診断された。翌日から私は会社を休み、母と毎日病院へ通った。1週間後に母が帰る時も父の容態は良くならなかった。「あの時ディズニーシーに行こうって私が言わなければ…」その時から私の中でどす黒い気持ちがムクムクし始めた。
 
幸い当時の職場は病院からタクシーでワンメーターの距離だったため、昼間は父を見舞い、夜は病院に頼んで何度か泊らせてもらった。父のベッドの横に簡易ベッドを置き、父のそばにいた。当初の予定通りディズニーランド&恐竜博だったらこんなことにならなかったのに、父にも家族にも大変なことをしてしまったという気持ちだった。夜、父が隣で眠る病室でじっとしていると後悔や恐怖が次から次へと折り重なる。重く暗い気持ちを抱えたまま会社に向かう朝は辛かった。
 
1ヶ月経っても父の容態は良くならなかった。

母や兄、甥や姪から遠く離れたこの病室で万が一のことがあったらと思うとたまらなく怖かった。改めて大変なことをしまったという思いがこみ上げる。なんとか家に帰らせてほしいと主治医に頼み、状態が安定して帰れそうなら伝えます、と言われた。しばらくした後、明日なら大丈夫だと思うと告げられ、民間の救急車で搬送する手配をした。急変する可能性もあり危険な状況だったが、なんとか無事に帰ることができた。父はその後地元の病院に入院したまま、約一年後の早朝、ひっそりと亡くなった。
 
母を亡くし、大きな事故を経験し、優しいじいちゃんを亡くし、寂しさを抱えながらも甥と姪はその後それぞれ小学校を卒業した。
 
中学生になると二人は反抗期を迎え、小さな頃から、母以上に母にならなければと必死で母代わりをつとめてきたばあちゃんを、ばばあ、クソばばあ、うるせー、死ね、と呼ぶようになった。心配して毎週末東京から帰ると、私たちの顔を見るなり舌打ちして二階の自室へ引きこもり、私たちが帰るまで部屋から出てこない。中途半端に介入すると、私たちが帰った後あと母に余計辛く当たるのではないかと心配だったため、結局、無視された状態を無視することにして、できるだけ平常心で過ごすことにした。それしかできなかった。反抗期の2人にどう対応したらいいのか、夫と私は意見がまったく合わなかった。日曜日の夜東京へ帰る車内でほぼ毎回怒鳴り合いの喧嘩をしながら高速道路をぶっ飛ばし、精根尽き果てて深夜に到着し、次の日から出社という生活だった。
 
スクールカウンセラーを調べたり、本を読んだり、ネットで調べたりと、反抗期の対応に関する情報を求めるけれど、薬のように効能や効果が期待されるものではないので、やってみなけりゃわからない。血は繋がっているとはいえ、私の子どもではないあの2人にどこまで私が介入していいものか。介入した結果、さらにひどくなってしまったら、それを受け止めるのは離れて住んでいる私ではなく母や兄。結局二の足を踏んだ状態が続いた。
 
四六時中心配で頭が重かった。

食べて行くためには東京で仕事をしなければならない。でも実家に帰るべきではないのか、でも仕事があって帰れない、でも帰らなければ母が救われない。その時は、手足をそれぞれロープで縛られ、手足がひきちぎれるほど四方八方からロープが引っ張られているような感覚だった。いくら考えても何をどうすればいいのか答えはでなかった。
 
反抗期はいつ終わるのか、本当に終わるのか、家族みんなが先の見えない不安な日々を過ごした。そんなこともあったね…みんなで静かに話せる日が来るとはとても思えなかった。
でも気づいたらそんな日が戻ってきていた。あっけないほどに。あまりにもあっけなくてあれは夢だったのかと思うほどに。
とにかく、ようやくみんなが穏やかに過ごせる、そんな希望を感じてしばらくした頃、東日本大震災で被災。地盤が割れ、家が傾き壁面には無数の亀裂。歪んだドアは鍵をかけられない状態に。家は大規模半壊と診断され、引っ越した。

そして今に至る。

 

ここには書けないこと、書ききれないあんなことやこんなこと、そして今も胃が痛くなるような日々も多いけれど、穏やで幸せだと思える毎日を送っている。
 
この先家族にまた何かが起きるかどうかわからないが、今なら子どもを産めるかも、いやいやもうとっくに無理、そんな思いをここ最近繰り返していた。

そして思う。
 結局私がいてもいなくても家族はそれぞれの人生を送ってきたはずで、私は勝手に先導役を引き受けて右往左往しただけだった。私が何をしたところで姉や父の死を防ぐことができず、母を心臓の病から守ることもできなかった。
そこから考えを先に進めると、あぁ産めたのかもしれないという思いにたどり着く。産んだって産まなくたって家族の状況は変わらなかったわけだし。
 
でもそうじゃなかった。
それは安っぽい結果論にすぎず、その時々の私はいっぱいいっぱいだった。東京でフルタイムで働きながら、金曜日の夜実家に戻り、日曜日の深夜東京に戻る生活、家族のその時々のもろもろをごっそり持ち帰り消化不良のまま月曜日の朝から仕事に戻る生活。そんな生活を結婚直後から15年以上繰り返してきた。これ以上何も受け付けられない、そんな状態だった。そんな中で、命を授かり育てる、それは自分には非現実的な世界だった。子どもが自分のように病弱だったら…学校でいじめにあったら…子どもが病気の時に実家でまた何かがあったら。起きるかもしれないし起きないかもしれない未来にいつも怯えていた。自分の力ではどうにもできないことに自分が引き裂かれるのはもう無理。そう思っていたのだった。そして子どもを産むという選択肢はなくなっていた。
そういうことだった。