失敗とは挑戦しないこと
何かミラクルが起きないかなぁーと、息苦しさに押しつぶされそうになりながら今朝は布団の中でぐずぐずしていました。前にも後ろにも進めない状況が1ヶ月続いており、いい加減我慢の限界。日に日に気持ちが沈んでいきます。
仕事はひとつ決まりました。
でも、誰に聞いても、「そこはやめたほうがいいよ、ちょっとあんまりね」と言葉をにごす。夫にいたっては、企業文化がよくないからやめたほうがいいよと直球を投げつける始末。
もう一社、今週中に良い結果が出そうなところがありますが、そこはまったく未知の世界。一生縁がないだろうと思っていた職種。私のようなアホとは住む世界が違う人たちがいるところ、と思っていたので、高嶺の花どころか憧れることすらなかった。なので、話は進めてみたものの、万が一良い結果が出た時に、果たして飛び込めるんだろうか、私にできるんだろうか、できないような気がする、とはじめるまえから尻込みしています。そういうところはやめたほうがいいような気がする。
さらに、それぞれの会社の良いところ、良くないところを照らし合わせてみたところ、どっちもなんだかなぁー。何かミラクルがおきないかなぁーと冒頭につながるわけです。
ま、そうそうミラクルはおきません。
わかっています。
さて。
先日不採用の連絡があった会社ですが、ほぼ毎日その会社のサービスを利用しているので、社名を見るたびに、不採用のメールを見たときの気持ちを思い出して辛いです。傷口に自分を塩を塗り込んでいる状態。こんなことなら応募しなきゃ良かったと心から思いました。そんなとき、
「世の中では、成功とは挑戦して成果を得ること。失敗とは成果を得られなかったこと。でも、私の定義は違う。成功は挑戦すること。失敗は挑戦しないことなんです」
という記事を読みました。
不採用だったけど、挑戦はしたんだから今回は成功だったんだ。
いい加減もうそれでよしとしよう、自分。
やっぱり落ちた
言霊っておそろしい。
やっぱり第一希望の会社の最終面接で落とされました。『面接の結果はpositiveだったのですが、今回は採用枠が1つしかないので本当に残念ですが他の方に決定しました』。というメールが、夕方届きました。文頭の挨拶文をすっ飛ばして、真ん中あたりから読み始めたところこの文章が目に飛び込んできました。自分の見ているものが信じられませんでした。ダメかもと思っていても、その結果通りのことが起きると人間ってこんなに動揺するんですね。覚悟しているつもりでしたが、覚悟できていませんでした。心の奥深くで1%の望みにすがりついていたんだと思います。読み終わって固まってすぐにメールを閉じて、また開いて読み直してまた固まって...をしばらく繰り返しました。
今回は本当に痛いです。
いまだに心がズキズキします。
痛いです。
心臓をがんがん叩かれているような痛みをまだ感じています。
めげずにがんばらなきゃ。
たぶん落ちた
こりずにまた転職活動をしています。
あこがれだった会社からまさかの書類選考通過の連絡がきて舞い上がり、その勢いで一次面接通過、そして先日最終面接をしてきました。
これまでの数々の経験から考えると、今回は落ちたんだろうなと、思っています。信じたくないですが多分落ちました。
気晴らしにこれまでミラクルが起きた面接をリストアップしてみます。この言葉が面接中に出てきたらほぼ100%採用されました(自分比)。
1. 「今日時間ありますか?」
手応えを感じながら面接に臨んでいると、その日に会う予定はなかったけれど採用されたら同じチームになる人、などを面接官が呼んできて想定外の面接(面談)が展開されることがありました。
2. 「社内見てみますか?」
面接がほぼ終わりに近づいた時、この言葉が面接官から出てきて、部署の場所やチームのメンバーをざっくり紹介されました。面接後会社を出て駅に向かっているとエージェントから電話がかかってきて採用決定を告げられました。
3. 「ちょっと待っててください」
面接がほぼ終わった段階で面接官から待つように言われ部屋で待機していると他の面接官が面接にやってきて面接。またさらに待つように言われ、別の面接官がやってきてさらに面接、結局4人と面接してその場で採用が決まったことがありました。一次面接とエージェントから聞いていましたが、この人いいかも!という最初の面接官の判断で、その日に四次面接まで終えてしまったのでした。最後の面接官は私の中でラスボス登場といった感じでした。
懐かしいです。
こんな嬉しいミラクルを経験させてもらったので、不幸な結末も覚悟しなきゃねと今回は自分をなだめています。面接がうまくいっただけに今回はなおさら残念です。
めげるな、自分!
がんばれ、自分!!
かなしいこと
痩せてから、自分を飾って少し楽しめるようになりました。アクセサリーを身につけたり、ネイルサロンに再び通いはじめたり、ワンピースを買ってみたり。楽しいです。誤解を招く表現かもしれませんが、女の人が何気なくしていることをようやく楽しめるようになりました。
でも、きれいにしてもらったピカピカの爪を見るたびに思うのです。アイカラーやマスカラでおしゃれした顔を見るたびに切なくなるのです。
もっと若い時に痩せればよかった。
どんなに爪がきれいになっても、手のシワが気になります。
3万円のファンデーションでも、毛穴落ちやたるみは隠せません。
若かったら、化粧なんかしなくても美しいです。
逆に、化粧をしても美しいです。
年をとると、美という点において限界があるとわたしは感じてしまいます。もともと、こうあるべきという観念に私はとらわれがちなので、なおさらそう思ってしまうのかもしれません。
何をしてもおばさんはおばさんだよ。
着飾ってうふふとよろこぶ鏡の中のおばさんを冷めた目で見る自分がいます。
まあそれでも、おばさんでも、いいです。
仕方ないですよ。
それはそれ。
おしゃれを楽しんで何が悪い。
所詮、人生は自己満足ですから。
ダイエットをやめてみた
ダイエットをやめて数ヶ月経ちました。
ようやく65kgが目前に。
私にとって65kgは夢の数値でした。60kg台になるなんて、どうやっても無理。泣きながら思ったこともありました。
70kg台を目指してダイエットをすると80kg超え、80kgを目指すと90kg超えに、そして90kgを目指していたところ、四捨五入すると100kgに到達するまで体は膨れ上がり、心底恐ろしくなりました。
ダイエットして太るならダイエットなんかやめてやる!そう開き直ってダイエットをやめることにしました。すると90kg台からもう少しで65kgまで体重が減りました。
65kgってまだまだ太っちょです。
でも案外楽しいもんです。洋服は3L以上でしたが、今はMや38でも着れるようになりました。洋服の選択肢が増えただけで、外出も楽になりました。
とはいえ、誰と比べるかによって、自分が痩せて見えたり、まだまだ太って見えたりと心は忙しいですが、そんなこと、どうでもいいです。人と比べること自体無意味だとわかりました。ダイエットにおいて人と比べる限り、決して自分に満足することはないからです。なぜなら自分より痩せている人は星の数ほどいるから。ここでいい、これでいいを他人基準で決めると永遠に終わりがありません。
もっと痩せたい、もっともっと、とストイックになると拒食症になります。若い頃の私がそうでした。
今は人と比べずに、今の自分をいたわり、自分を楽しむようにしています。英語のスキルアップを目指してSkypeで英会話のレッスンをしたり、ネイルサロンに通ったり、念願の表参道の美容室に行ってカッコいい髪型にしてもらったり。
表参道といえば。
私にとってはいつまでも近寄りがたい街でした。学校があったので渋々通っていましたが、授業が終わったら一刻も早く立ち去りたい街というイメージです。太っている自分が歩いていたら街のイメージを壊すんじゃないか、本気でそう思っていました。
人は変われるもんですね。
ハッピーってなんなのよ
最近また仕事が忙しくなり、帰りは連日終電ギリギリまたは終電を逃してタクシーで帰宅、という生活が続いています。
雪がしんしんと降り積もる中で、せっせと雪かきをしているような気分です。やってもやっても地面が見えず一向に雪がなくならない。
でも、前職と違ってまわりが良い人たちなんです。社内に愚痴を言える味方もほんのちょっぴりいて、状況を改善しようと採用活動をはじめてくれた上司もいて、私の雪かき作業ができるだけ楽になるようにと気遣ってくれる環境なのでまだいいほうだと思っています。
ただ、やっぱり体力的にきついことに変わりはありません。家に帰ってきて布団に入ってもまだ頭の中でPCが起動している状態で、スリープモードに切り替わらない。ようやくウトウトするのは朝の4時ごろで、数時間後には出勤。
家族からは勤務中に何度もラインで「大丈夫?頑張りすぎないで」のメッセージ。
家に帰れば「過労死レベルの勤務時間だよ。。」と何度も言われる始末。
先日、寝る直前に「やりたいことは全部やってきたし、見たいものは全部見てきたし、幸せな人生だった。このまま仕事で死んでも悔いなし」とふと思ったんです。前職も同じような状況で、仕事で死ぬなんて冗談じゃない、と思ったのですが、今回はそれとは真逆。
一応夫にも伝えておこうと
私:「万が一仕事で死んでも私全然後悔しないと思うから。大丈夫だからね」
夫: 「それ本気で言ってんの?大丈夫ってなに?本気でそう思ってんの?」
私:「うん。本気。死んだとしてもやることは全部やった。いい人生だったって受け入れられるから。心配しないで」
夫:「心配しないわけないじゃん。俺が逆の立場でそう言ったら、どうすんの?俺になんて言うの、そう聞かされたら?」
私: 「そんなに仕事しないでって言う。でも私の場合は。。。」
という感じで落としどころのない会話が永遠に続きそうな気配で、夜も遅く疲れていたわたしは会話の途中で寝てしまいました。
死にたいわけじゃない。
死んだら楽になると思っているわけでもない。
逃げたいわけでもない。
よくよく考えると、自分勝手だなと思います。
もしかしたらそれがわたしの本質なのかな。
人からは、優しくて、相手の立場を思ってくれる人、責任感が強いなどなど言われてきましたが、究極的には自分が良ければそれでよし、というわがままな性格なのかな。
わたしが死んだら母も兄も甥&姪、もちろん夫も深く悲しむだろうし、立ち直れないかもしれない。
それなのに、仕事で死んでも後悔しないなんて、よく言えたもんだ。
前置きが長くなりましたが、ここでタイトルの話しになります。
同じ話しを、ヨーロッパ出身の同僚に話したところ
- 仕事の犠牲になっても良いなんて決して考えるな
- それは心の中はもう死んでると同じこと
- ハッピーになること、ハッピーであること、それが生きているってことだろ
- たとえ今幸せじゃなくても、少なくとも俺はいつか幸せな日が来ると信じて出来る限りの努力をしている(彼の家庭環境はかなり複雑)
- 今、ハッピーだと感じてる?
のようなことを言われました。
彼のキーワードはハッピー。
ハッピーじゃなければ生きている意味はないだろうと。
いやいやいや。
ハッピーじゃなくても人は生きていけるし、生きなきゃいけないわけで。
そんなにハッピーハッピーいうなら聞くけど、じゃぁハッピーってなんなの?
わたしには、申し訳ないけれど陳腐な言葉にしか聞こえませんでした。
ハッピーであることは生きる目的とか色々言ってましたが、なんだかピンときませんでした。
昔の人は、大義名分や、自分や国の名誉を守るために死ぬことなんて普通でしたよね。それは日本に限らず世界のあちこちでも。ハッピーじゃないなら半分死んでると同じことだ、なんてぬるいことを言える環境じゃなかったような気がするんです。そんな大昔のことを引き合いに出しても仕方ないですけど。
楽しむために生きるという彼。
与えられたことを成し遂げるために生きる。その結果として死んだとしても仕方がないという私。
わたしは生まれる時代を間違えたか。
また今度、彼とハッピーについてぜひ話しをしたいです。
ハッピーじゃなくても生きなきゃいけないと思うわけです。命が続く限り。
お店で服を買う
先日ふらふらと吉祥寺を散策していて、かわいいバッグを見つけたので思い切ってお店に入ってみました。そのお店はもう何年も気になっていたのです。バッグ、靴、アクセサリー、洋服などセレクトショップ風に並んでいます。特に洋服は、憧れの眼差しでいつも眺めていました。憧れというのは、到底着れるとは思えない普通サイズの服だからです。
バッグも気になりましたが、私がおおーっ!と思ったのはダークブルーのカットソー。襟のカットが上品でかわいらしい雰囲気。これいいわ〜と思ってじっとり眺めていたら店員さんから試着を勧められました。
この体型の私に試着を勧めてくれるなんていい人だなぁと思いつつ、どうせ着れないという恥ずかしさから、「かわいいんですけど太っているので着れないと思います」、と言ったところ信じられない言葉が。「そんなことありませんよ、ぜひご試着なさってみてください」と言って、ぜひこれと一緒に、とパンツも持ってくるというさらなる追い討ちに。試着して鏡に映る姿に愕然とし続けてきたので、憂鬱な気持ちで試着室へ向かいました。
結果、なんと着れたんです。
うそー!!!と、自分の姿にびっくり。
これ着れるの私?!
嬉しさと驚きでしばらく鏡の中の自分をじーっと見てしまいました。
結局、カットソーだけ購入してその日は帰りました。お財布は軽くなっちゃったけど、気持ちもふわっと軽くなりました。20kg痩せるとやっぱり違うんだなぁと実感した日でした。