一瞬ダークサイドへ落ちたときのこと
最初から嫌な予感があったわけではなかった。
むしろうまくいっていた。
親戚の集まりのため4時間の道のりを夫側の家族と共に移動すると聞いたときは、うまくやれるだろうかと心配で、ずいぶん前から不安ではあった。どうがんばっても、4時間お喋りに花を咲かせるなんてできるわけがない。からだのどこをバシバシ叩いても華なんか出てこない私。華やかさとはまったく無縁の性格。こういう時に嫁はそつなく振る舞うんだろうなと真っ暗な気持ちを引きずったまま早朝の東京駅に到着したのは事実だ。
でもその気持ちが、姪の笑顔を見た時に一瞬で消え去った。
夫の兄弟の娘が、ニコニコしながら私を見上げて手を握る。そのまま手を繋いで新幹線に乗り込む。しっとりとやわらかな命を手に感じながら、隣同士に座る。それから4時間、なんと、あっという間に時間が過ぎてしまった。何をお喋りしたかも忘れてしまったが、気負う必要もない小さな女の子とのお喋りは純粋に楽しかった。途中疲れてうとうとしたこともあったが、ほとんどの時間一緒に過ごした。
目的の駅に到着したときは心底ホッとした。少なくとも、この子のお相手をしたことで嫁の役目は果たせたと思ったからだ。
そして最初のダークサイドへの誘惑がやってきた。
「(私の名前)ちゃんは、がんばらなかったの?」
ん?
あれ?なんの話しだったっけ?
駅に到着してほっとして気が抜けていたので話の流れを見失っていた。
「xxxちゃんのお母さんは3回がんばったって。YYちゃんのお母さんは2回。(私の名前)ちゃんはがんばらなかったの?」
そうだった。この子に、子供はいないのかと聞かれて、その流れでこの話しが出てきたんだった。そっか。ほっとして話の流れを見失っていたのではなく、意識的に耳をピシャッと閉じたから聞くのをやめていたのだった。
この子は私になぜ子供がいないのか聞いているのだな。
そういうことだな。
そういうことだ。
そして私は言った。
「がんばらなかったねぇ」と。
他に何を言えばいい。相手は小さな子供だ。親がいつも話していることを単に真似して口に出しただけだ。仕方ない。この子のせいじゃない。
片足が落ちかけたけれど、この時はまだ完全には落ちなかった。
私一人がんばったところでできないんだよ、というべきだったかもしれないが、傷ついたまま性教育するほど、右の頬を殴った相手に左の頬を差し出すほど、私はお人好しじゃない。
例えが違うような気がする。ま、いいや。
落ちたのは「あんたもう一人産めばいいのに」と親戚のおばさんが話しているのを耳にした時。
不思議なもので、聞かなくてもいいこと、むしろ聞かない方がいい話しほど聴覚が異常に研ぎ澄まされて耳に届くことがある。その時はその瞬間だった。
お座敷に座って食事をしていた時、その部分だけクリアに聞こえてきた。その前後に話している内容なんて聞こえるはずがないほどおばさんは遠くに座っているのに。おばさんが話しかけているのは私の義理の姉。「あんたがもう一人産んで跡取りを作ればこの家の血は繋がるのに」家を心配して姪に思わずそう言ってしまったんだろう。自分の出自である家(姓)が途絶えるのは忍びないのだろう。その気持ちはわかる。その責任を私はずっと感じてきた。でも子はできなかった。あっという間だったが決して短くはない20年間を思い返し、そしてダークサイドにすぽっと落ちた。
20年間待ち続けたけど、結局娘の子は抱っこできないと静かにひとり諦めた私の母の気持ちがあんたにわかるのか。家系が途絶えるかどうかよりも私には重いんだよと。極端な話し、養子をもらえば解決できないこともない。でも娘の子には替えはいない。
ま、考えてももうどうしようもないことだ。母には極上の親孝行を続けよう。
そう思いなおしダークサイドから脱出した。
繰り返しになり申し訳ないが、私は長男の嫁で子なしだ。
多分死ぬまでその呪縛から逃れられることはないんだろう。