どんな苦しい生活にも、美しい光が灯っている
この日々の暮らし。
この小さな生活。
昨日の一日。
今日の一日。
暮らしながら、
わたしたちはほとんど気がつかないでいる。
どんなささやかな暮らしにも、
苦しみや悲しみが混じった生活にも、
その片隅で美しい光が灯っていることに。
それが消えずに、
わたしたちの暮らしを照らしていることに。
(『ヴィトゲンシュタイン 世界が変わる言葉』より)
たとえばこんな場合。
ある難病から肺炎を患い、1年以上病院のベッドで寝たきりだった父。数本の管によって命をながらえ、シモの世話をしてもらい、固く目を閉じ見舞いにきた家族を見ることもなく静寂の中で一日を過ごしていた父。ささやかというよりも、かすかにこの世界に引き止められていた父のあの暮らしの片隅に、美しい光が灯っていたのだろうか。1秒でも長くこの世にとどまることが父にとって光だったのだろうか。
たとえその1秒が苦しみでしかないとしても?
どれだけ想像してもこたえがわからない。
もう一度ヴィトゲンシュタインの言葉を読み直す。「苦しみや悲しみが混じった生活」とある。
あぁ、これは苦しみや悲しみがすぐそこにあったとしても基本は幸せや喜びも感じることができる人を対象に語りかけているのかもしれない。たぶんわたしの父のような状態は含まれないんだろう。
わたしの小さな頭ではその程度の理解で精一杯。
もしそうだとするなら、翻ってわたしの場合。
基本毎日つらいです。
寝る直前まで苦しんでいます。四六時中そのことが頭から離れないせいか、毎朝3時ごろパッと目がさめるので、3時間の睡眠時間以外はその苦しみがずっと頭の中に居座り、あちこちカジカジ蝕んでいます。
あまりに苦しくて昨日公園を散歩しました。
風が強い日で、髪の毛をごしゃごしゃにされながら台風の影響だっけなどと考えながら薄暗い気持ちのまま歩いていたのですが、ふと池を見るとそれまで静かだった水面が、一気に吹きつけた風の勢いで水紋が向こう岸までさわさわさわーっと広がったのです。水中からぞわぞわと何か生き物が出てくるように錯覚し、鳥肌が立ちました。少し怖かった瞬間ですが、美しい一瞬でもありました。
多分そういうことなのかな。
こんなご褒美もたまにあるわけだから、ね、希望をつないでいきましょうよ、また美しいものを見るために。
ということなんでしょうか。
ちなみに、思わずとった池の写真はこちら。
<風が吹く前>
<風が吹いたあと>