また明日
姉はいまどこにいるんだろう。
白い布に覆われて座敷に横たわる姉を見てそう思った。心臓はもう動いていないけれど、ここにまだ体はある。
残りの姉はどこに行ってしまったんだろう。
あれからもう15年が過ぎた。
姉の乳がんが再発したと母から聞いたのは、手術後3年目のことだった。当時姉には8歳と6歳の子がいた。再発の告知直後は、まだある程度体を動かすことができたので、花見をしたり、近くの公園へ出かけたり、バーベキューをしたり、花火をしたりと、体の調子が良い時を見計らって、子どもたちと過ごしていた。
秋になりいよいよ体が動かなくなり、再入院した。母と兄は、毎日姉の子どもたちを連れてお見舞いに行くけれど、姉の命が燃え尽きようとしていることを子どもたちにはどうしても言えなかった。無邪気な時間の中で駆け回る子どもたちを死という言葉でいきなり殴ったら粉々になってしまうんじゃないか。
姉に、自分の死が近いことを悟られてしまうのも怖かった。わたしたち家族は、迫りつつある現実を避けて奇跡にすがり、日々祈るように過ごしていた。
ほどなくして、子どもたちは、お母さんはもう冷たくなってしまった、という事実を無常に突きつけられた。
在宅介護だったら、命の悲しみと尊さを感じながらその時まで一緒に過ごすことができる。退院して在宅介護に切り替えた、とブログで読んだ時、ほんの少しだけほっとした。同時に、姉と子どもたちのことを思い出して切なくなった。
当時、姉のお見舞いから帰る時はいつも「じゃまた明日」といって別れた。
明日も明後日もずっと姉に「また明日」と言えますようにと願いながら。
また明日って、祈りや希望を含むいい言葉ですよね。
明日なんかきてほしくないと思う時も長い人生の中にはあります。でも「明日」はみんなに平等にくるわけではない。そう思い出すと、この言葉の重みを、生きている尊さを感じるのです。